ニューヨークからハリウッドへ拠点を移したビースティ・ボーイズが、ヒップホップの概念を覆す。
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1989年、ヒップホップにおけるサンプリングは“ワイルド・ウエスト”、西部開拓時代の様相を呈していた。それは度重なる訴訟によって、自由奔放なサンプリングカルチャーが法的な泥沼に陥る前のことだ。そんな1989年当時、ビースティ・ボーイズもまた自身のワイルド・ウエスト期にあった。デビューアルバム『Licensed to Ill』(1986年)のヒットを足がかりにさらなる成功を目指した彼らは、生まれ故郷のニューヨークからロサンゼルスのハリウッド・ヒルズへと移り住んだ。『Paul’s Boutique』は、こうした時代背景と彼らが身を置く環境の変化が重なって生まれた。
「自分たちのクレイジーなアイデアを、このレコードに全部詰め込もうと決めたんだ」
古巣のレーベル、Def JamからCapitolに移籍し、前作のプロデューサー、リック・ルービンとも袂(たもと)を分かつという騒動を経て、ビースティ・ボーイズはロサンゼルスのデュオ、ダスト・ブラザーズをプロデュースに起用。本作にはヴィンテージのファンクやソウルから、ビートルズの「The End」の断片まで、有名無名を問わずさまざまなサンプリングが万華鏡のようにちりばめられている。マイク・D、MCA、キング・アドロックはそれらを用いて快楽主義や破壊行動、「ヤギみたいなヒゲを生やした(a beard like a billy goat)」自分たちのプリミティブな喜びや興奮を伝えている。そのサウンドは、彼らがやってきたこととも、過去に他の誰かがやったこととも似ていなかった。しかし、本作は商業的には大失敗に終わった。3年後、彼らは訴訟に発展しかねないサンプリングを楽器の生演奏に置き換える改革を敢行。3作目の『Check Your Head』(1992年)は、メインストリームで大成功を収める。だとしても、『Paul's Boutique』がサンプリング芸術の記念碑であるのは間違いない。極めて独創的でちゃめっ気のある、ヒップホップの頂点を記録したアルバムだ。